Curator ・ Researcher ・ Writer working across Japan and South Korea.

Writing-driven curatorial practice
grounded in feminist and decolonial inquiries
into ritual, memory, and the undercommons.

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[기억 앞에서 — 오사카 쓰루하시·니시나리 필드워크 리코드]를 한국어로 번역하여 함께 공개합니다. 아래 언어 버튼을 눌러 읽으실 수 있습니다.


記憶の前で ーー 大阪 鶴橋・西成 フィールドワーク・レコード

文:チョ・ヘス

昨年の夏、日本最大規模のコリアンタウンがある大阪・鶴橋を訪れました。西成、そしてそこで長く活動してきたココルームを訪ねることになり、その途中で立ち寄ったのです。天王寺を挟んで、斜め向かいに位置する西成区と生野区。大阪に来るようになってから、この一帯を訪れるのは初めてでした。 

一方で、大阪を初めて訪れたのは高校の修学旅行のときでした。釜山港からフェリーに乗り、対馬、下関、瀬戸内海を経て大阪港に入ったのです。船の中では、友だちとわいわい騒ぎながら海を渡り、部屋では辛ラーメンを食べていました。昼に出発して一晩眠る行程で、船の中から見る海は、どれほど暗く、深かったことか。 何も見えませんでした。そして、目を覚ますと、もう到着していたのです。 

この話から書き始めたのは、この航路が百年前にもまったく同じように使われていたからです。今回訪れた鶴橋のコリアンタウン歴史資料館で、同じ航路が記された地図を見たからでした。おそらく、百年以上前から使われてきた道なのだと思います。そして、私の曾祖父と母方の祖母が、解放後に釜山へ戻ったときも、たぶん同じ航路を通ったのだと思います。 

大阪コリアンタウン歴史資料館の案内パンフレットに掲載されている、 
1933年の主要航路の地図。釜山から下関を経て瀬戸内海に入り、大阪港に到着する。 

私の曾祖父は、朝鮮半島が日本の植民地だった時代に日本へ移住しました。働きに行ったと聞いてはいますが、それ以外のことについてはよく知りません。彼は炭鉱夫でした。私の母方の祖母は、大阪を経てたどり着いた京都の山あいの村で生まれ育ちました。それ以外のことについても、あまりよく知りません。解放後、朝鮮人帰還船に乗って釜山へ戻ったのは、祖母が二十歳になる前のことでした。(一度も行ったことのない土地に「帰る」ことは可能でしょうか。) 
 
母方の祖母は、私が生まれるちょうど一か月前に亡くなりました。つまり、祖母と私は、どの時間も物理的には共有していないということです。それでも私は、私が聞いてきた祖母の話がとても好きで、だから鶴橋のコリアンタウン歴史資料館で海図を見つけたとき、うれしかったのです。 
祖母について気になり始めたのは、たぶん私が日本語を話せるようになってからだと思います。 母は、子どものころ、階段の「かいだん」(韓国語の発音では「ケダン」)という言い方が、釜山の方言だと思っていたそうです。それ以外にも、私が好きな祖母の話はいくつかあって、それらは日本語と関係のあるものです。その中でいちばん印象に残っているのは、祖母が市場の豆腐屋のおばさんとだけは、必ず日本語で会話していたという、叔父の子どものころの記憶です。祖母は釜山へ戻ったとき、韓国語をまったく話せなかったそうです。 
あの頃の祖母の言葉を理解できるのは、私だけです。 
祖母はもういませんが。 
 
いまでは老人になってしまった叔父は、ときどきグーグルマップで、百年あまり前に祖母が生まれた住所を検索して、ストリートビューを見ています。その住所は、祖母の妹がずいぶん昔に教えてくれたものです。その妹も、もうずいぶん前に亡くなっていて、いまはいません。ある日、叔父はこう言いました。 
 
「京都市の資料にアクセスしようとしたんだけど、海外だからか、入れなかったんだ。住民名簿とか、乗船記録みたいなところで、名前を探せるんじゃないかな。日本は、昔の記録も残っている国だから。」 
 
私は、祖母の日本名を聞きました。 
 
「金(キム)姓だから、たぶん……カネなんとかじゃないかな。」 
 
名前を知らない記憶を探すことは、可能でしょうか。 

残されたものたち

生野区の鶴橋駅で降りて、10分も歩けばコリアンタウンに着きます。
解放以前から朝鮮人の集団居住地として知られてきたこの場所は、かつて「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていたそうです。 

​目に入るもののほとんどは、韓国関連の専門店です。現在は、K-POPのグッズショップや韓国式カフェでにぎわう、若者の街になっています。一方で、誰が見ても在日コリアンが伝統的な方法でおかずを作って売っているに違いないと思われる店があるかと思えば、別の一角では、韓国で一時流行して、すでに姿を消したお菓子が売られていました。ある瞬間には、鍾路(チョンノ)のような旧市街にも見え、また別の場面では、弘大(ホンデ)前のように騒がしく、そしてあるときは、ごく普通の大阪の街のようでもあるこの場所は、古いフィルムを何本も重ねて置いたような印象を受けました。 
東京のコリアンタウンである新大久保では、なかなか感じることのできない、混在した時間性です。 

「猪」は 豚、 
「飼」は 飼育、 
「野」は 野原 を意味します。 

昔から日本では、豚は祭祀や供物、貴族の食材として、「管理される生命」でした。そういえば、 
以前に訪れたコリアンの集団居住地である京都の部落地区も、もともとは革の加工、屠殺、染色、死体処理などを行う人々が住んでいた場所だと聞きました。 

血や死に関わる空間が、常に都市の境界地帯に置かれてきたことを思うと、どうやらこの名前も、都市を支えるもう一つの土地としてつくられたもののように思えてきます。危険労働の密度が高く、物価が低い、蔑まれてきた土地は、近代を経て、移民が流入する地域へと変わっていくものです。だからこそ、植民地出身者たちが日本の中で集団居住地を形成した場所の多くは、それよりもずっと以前から、差別の歴史が蓄積してきた土地でもあります。 
 
そんな土地が、いまでは焼肉以外には、豚とそれほど大きな関係があるようには見えません。路地ごとに違って流れてくるK-POPと、韓国風のファッションをした人々で埋め尽くされた文化の通りの中で、「猪飼野」という名前は、ふと忘れられた過去のように感じられます。それもそのはずで、いまここに住み、韓国文化が好きでこの場所を訪れている若者たちは、この街が「猪飼野」と呼ばれていた時代と生きてきた時間が少しも重なっていないのです。 
 
こうした生野コリアンタウンの一角に、歴史資料館ができたと聞いて、訪れました。 
 
4・3のときに大阪へ避難してきた多くの済州の人々の一人である洪呂杓(ホン・ヨピョ)さんが、2003年に設立した日韓文化交流施設がその起源です。そして2023年に、「大阪コリアンタウン歴史資料館」になったそうです。資料館には、1910年代の地図から最近の写真に至るまで、この通りの歴史を示す資料が展示されていました。 
 
この街の始まりを示す記録は、1903年の済州海女の渡航記録です。済州の海女たちは、ようやくユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、長いあいだ済州の海で生計を立てながら、蔑まれてきた女性たちでありました。頻発する凶作と収奪の構造、そして植民地期における海産物流通の独占のもとで、海女たちは海を渡り、出稼ぎの潜水漁に出るようになります。 
その後、大阪には済州出身者を中心とする大規模な朝鮮人共同体が形成され、解放後には、4・3事件の遺族たちも合流するようになります。1920年代には、住所に「日本国・猪飼野」とだけ書いても、朝鮮半島から手紙が届いたそうです。済州から密航してきた家族を、手紙を出して探し当てた例もあったといいます。 
 
昔は、近所の人たちの名前をみんな知っていた時代でしたから、一つの地域に集まって住んでいれば、可能だった話なのかもしれません。この小さな街の人口統計まで目にしてみると、なんだかふと、私も祖母についての記録を見つけられるかもしれない、そんな気がしてきました。 

コリアンタウン歴史資料館の内部は、現在から過去へとさかのぼる構成で資料が展示されていました。K-POPが流れている現在と、海女たちが密航してきた土地とではあまりにも遠く感じられます。 
 
展示室には、行政区画の変化、朝鮮総連と韓国民団の分離、特別永住権法施行以後の記録、本名と日本名が混在した住所の写真、村の祭りの風景写真……などが展示されていました。それらは、あまりにも「客観的な」資料でした。 
言い換えれば、ミュージアムやアーカイブとは、中立的な記憶の貯蔵庫というよりも、何が記憶として認められる価値をもつのかを量る空間だと言えるでしょう。資料館――つまり一種の「ミュージアム」になるということは、公的な承認を求めることでもあります。だからこそ、そうして集められた資料たちは、あまりにも明白な顔をしていて、かえって切実に見えてしまうほどでした。 
 
アーカイブとは、記憶するための通路です。そして、「アーカイブをつくる」ということは、それが少なくとも、ある個人や集団にとって価値のあるものだと認める行為でもあります。だからこそ、誰かはこうした資料館をつくることをやめないのでしょう。ある人にとって重要な史料が、別の人にとっては、まったくそうではないこともあるからです。すべての歴史が、普遍的な代表性を与えられるわけではない、という意味でもあります。 
 
多くの場合、こうした資料館は、日本の博物館法に該当しない施設として運営されています。公的な機関に属していないがゆえに、村のコミュニティとしての性格や政治的な自律性を獲得する一方で、その運営においては、さまざまな困難も引き受けています。正式な学芸員がいないために、資料の保存や管理における専門性が欠けている場合もあり、労働力もまたボランティア活動に依存する傾向があります。そのため、資料があっても、手をつけられずに放置されてしまう量が常に生じてしまいます。正式なミュージアムに比べれば、もともと多くもない資料が、それでもなお、つねに選別され続けなければならないのです。 
 
ミュージアムとは、共同体が経験してきた時間を量るための秤です。そしてときには、その秤には、数字として現れないものもあります。記録の不在とは、単に過去が見えないという問題ではありません。それは、現在が過去と関係を結ぶための感覚の通路が遮断されてしまうことでもあります。過去と現在のあいだの距離とは、単なる時間の長さではなく、その時間に、どのような感覚的媒介を通して接続できるかによって決まるのです。 
 
私は、こうした資料館というものが、制度的な歴史の外側で、想像の記憶がとどまることのできる一つの形式なのだと思いました。未完のミュージアムは、秤が壊れていて、むしろ、その上に載せられなかったものが何であったのかを、繰り返し思い出させるようになっているのかもしれません。 

資料館に来たことですし、西成へ向かう前に、記録についての話を少ししてみましょうか。 
 
私はいまもそうですが、日本に留学したばかりの頃はとくに、帝国主義批判や記録の倫理を作品のテーマとしてきた日本の女性作家たちに強く惹かれていました。たとえば、夫とともに三十二年間、《原爆の図》を描き続けてきた丸木俊について、修士論文のかなりの部分を割いて書いたこともあります。丸木夫妻は、当時、報道されていなかった記憶を記録するために絵を描きました。そして晩年には、米軍兵士やチマチョゴリを画面に登場させるなど、そこでもう一度、取りこぼされていた人々のことも見逃しませんでした。それ以外にも、朝鮮半島で生まれ育った日本人として、帝国主義について考えた人々のことも、あらためて見直すようになりました。 
 
ところが、私がそうした作家たちに初めて出会ったとき、実は、作品以上に大きな衝撃を受けたことがありました。これは、どこでも明かしたことのない、とても私的な驚きです。 
 
それは、そうした作家たちには、二十世紀初頭の写真が、つまり、顔が存在している、という事実でした。 
 
私の祖母の写真は、一九八〇年代に入るまで、一枚もありません。そして、その頃から、いきなりカラーで始まっています。祖母が一九三〇年代生まれであることを考えると、個人のイメージの歴史から、五十年分が抜け落ちていることになります。曾祖父の顔は、絵でも写真でも、見たことがありません。 
日本は、明治維新以降、西洋文化を積極的に受け入れ、植民地支配を土台にした産業発展のなかで、イメージ大国になっていった歴史があります。一方で、当時の朝鮮人にとって、カメラは個人の持ち物というよりも、日本人官吏や軍人、新聞社の道具であり、個人が写真機を所有することは、ほとんどなかったそうです。 

本人官吏や軍人、新聞社の道具であり、個人が写真機を所有することは、ほとんどなかったそうです。 
 
イメージを記録できる力とは、歴史を自分の視線から記憶できる力を持つという意味でもあります。 
 
誰かが、記録なしに記憶を証明しなければならない世界観のなかで、私たちは、信じることができるでしょうか。 
 
記録のない記憶を、引き継いでいくことは、可能でしょうか。 
 

どこか
 

西成は、大阪で古くから「問題地域」と呼ばれてきた街です。西成はしばしば、戦後日本の貧困、労働問題、暴動の歴史として要約されてきました。けれども、私がこの場所で出会ったものは、少し違っていたように思います。 
 
西成について、話してみようと思います。 

西成区は、明治時代までは農村地帯でした。この街が、なぜこれほど問題的な顔をもつ場所として表象されるようになったのかを話すためには、まず、天王寺のすぐ隣にある「新世界」と、その中心で光っている通天閣から出発しなければなりません。 
ちょうど私が訪れたとき、夜の通天閣には、二〇二五年の大阪万博を祝うメッセージが光っていました。

2025年の通天閣展望台

1903年の内国勧業博覧会まで含めると、大阪は、これまでに三度、博覧会が開催された場所です。1903年、つまり、済州の海女が渡航したという鶴橋の最初の記録と同じ、まさにその年に、この場所は、近代日本が最新技術を披露する場となりました。「人類館」という名のもとに、アイヌ、朝鮮人、中国人、沖縄人が展示されることもありました。いまでは、たこ焼き、串カツ、居酒屋、パチンコ、メガドン・キホーテの巨大な看板で混沌とした「新世界」ですが、博覧会直後の「新世界」は、その名のとおり、メリーゴーラウンド、ケーブルカー、音楽堂、滝や渓谷といった美しく豪華な施設で埋め尽くされた、西洋模倣の成功モデルでした。

敗戦後、仕事を求めてさらに多くの人々が集まり、復興期における急増する労働需要のなかで、そのすぐ向かい側にある西成区の人口は、急激に増加しました。単身者向けの寄せ場がびっしりと建ち並び、いまでも西成のあいりん地区は、こうした寄せ場が最も多く残っている地域です。そして、二度目の博覧会、1970年の大阪万博が開かれました。アジア初という世界的規模の開発と建設労働が集中し、日雇い労働者たちはさらに密集するようになり、低廉な労働物価が形成されました。日本の成長の陰で、この地域は、労働問題をめぐって持続的な衝突を経験しながら、「貧民街」「治安が悪い危険な場所」という呼び名のもとで、華やかさを支える空間として、押しやられるように位置づけられていきました。

それまで釜ヶ崎と呼ばれていたこの地域は、「あいりん地区」へと名称を変えましたが、いまもなお、この場所の人々は、以前の名前を使い続けています。

西成で最も有名な壁。
「居酒屋で幻覚剤を売るな!」
「日本人は原点に帰れ!義理・人情を忘れるな!」と書かれている。

実は、私が西成に来ることができたのは、私が信頼している先生が、ココルームを「ぜひ行くべき場所だ」と紹介してくれたからでした。 私は、その先生と、別の学生と三人で、この場所に来ました。大阪で長く育った私の友人の一人は、この場所に一度も来たことがないと言っていました。私は、信頼を借りて、ここに入ってきたのです。

今回の大阪滞在では、ココルームに泊まり、一緒に食べ、生活を共にしました。

ココルームの外観。
写真出典:ココルーム公式サイト(https://cocoroom.org)

ココルーム、
見つけにくかったです。

商店街の中にあるので、近くまで行くこと自体はそれほど難しくなかったのですが、「ゲストハウス」のような入り口ではなく、物を並べた露店のような佇まいだったので、その前で、少し立ち止まってうろうろしてしまいました。よく分かりませんが、中古の品物が置かれています。服もあり、カップもあり、本もあり、装飾品もあります。何か…… 何でもあります。何をする場所なのか、一目では分かりにくかったのです。カテゴリー化されず、「ただある」この場所は、何かを効率よく残したり、交換したりするための場所ではなさそうな、そんな印象を受けました。

何度もその前で立ち止まって、
ここ?
「ココルーム」という文字を見つけて、入ることになります。

入ると、テーブル。
カフェ?
だけど、ゲストハウス。
だけど?
みんなでごはんを作って、食べる。

そんな場所です。

庭もあって、井戸もひとつあります。井戸は、この場所をつくるときに、町の人たちがみんなで掘ったものだと聞きました。

ココルームは、2003年に新世界の中でカフェのような形で始まり、2008年に釜ヶ崎へ移ってから、23年間運営されてきたそうです。2003年当時の名前は、「こえとことばの資料室 ココルーム」。
「ココルーム」という名前のほかに、「釜ヶ崎芸術大学」という名前も持っています。でも、本当の大学ではありません。(……「本当の大学」って、何でしょう?)

ココルームでは、毎日、スタッフと訪問者が力を合わせて食事を準備し、いっしょにごはんを食べて、皿洗いをします。ちょうど周辺で大阪関西国際芸術祭が開かれていて、ここに滞在しながら展示を見たり、レジデンシーをしているベトナム人の作家にも出会いました。

申し込んだ人にかぎって、運営者の假奈代さんによる西成ツアー、いわゆる「釜ヶ崎アートツアー」に参加することができます。以下は、そのツアーの一部を、写真とメモで残したものです。

完成した昼食。食事代は1200円を寄付する。
いっしょに食べる準備をして、いっしょに片づける。
初めて訪れた私がした仕事は、箸をそろえて、人数分並べること。
いっしょに準備している様子。
写真出典:ココルームのホームページ
ツアー開始前の假奈代さんの挨拶と、西成の背景説明。
ココルームの向かいにあるギャラリー MaDo。
自転車置き場を改装してつくられた。椅子も、座布団も、天井の装飾も、すべて町の住民たちがつくったもの。
〈ベンチ・プロジェクト〉なども展開中。
西成に滞在していたアーティストが、一人が通るのもやっとなほど狭い通路に、大きな作品を描いていた。
地域の高齢女性たちが集まって、編み物や手芸をし、デザイン製品を販売している「たんす」。もともと箪笥(たんす)の店があった場所に、アーティストの西成佳雄が、アートプロジェクトとして地域女性たちの共同制作によるファッションブランドをつくった。
大阪関西国際芸術祭の一環として、展示も行われていた。 ココルームの室内にも一点展示されていて、 ここ Café ATARIYA では、Production Zomia が企画した展示が開催されていた。
Café ATARIYA の展示より。 ベトナム人作家リン・サン(Linh San)の作品。 リンさんは西成で短期レジデンシー中だった。 アーティストトークに参加して話を聞くことができた。 西成の残骸を使って陶器をつくり、帰っていったのだそうだ。

ツアーの途中で、近くにある飛田新地についての話も聞くことができました。1912年、大阪・難波にあった新地乙部遊廓が火災で焼失したあと、ここに移転してきたこの場所は、1958年に売春防止法が施行されるまで、大規模な遊廓(約2万2600坪)でした。日本は江戸時代から公娼制度によって性売買を管理してきましたが、飛田新地は、その制度の空間的な実装でした。当時、この区域は高い塀で囲まれており、許可された場所からしか入ることができず、多くの女性たちは契約関係に縛られ、外部への移動が制限されていました。それは、性売買の空間を居住空間から切り離そうとする観念の結果のように思えました。

現在、一部の店は料亭のかたちで営業を続けていますが、假奈代さんは、ここにいる女性たちが、別の生の表現やケアの関係を探していく転換の過程にあるのだと話していました。

釜ヶ崎と飛田新地は徒歩圏にありますが、単なる地理的な近接性としてではなく、労働と性という観点から、あわせて読む必要があると思います。飛田新地は、単なる性的消費の空間ではなく、日雇い労働のあとに、接触や承認、歓迎を与える場所として機能してきたのではないでしょうか。それは、労働者が再び労働の現場へ戻っていくための、感情的・身体的な再生産の装置です。この二つの区域は、そうしたかたちで、労働システムのなかで相互補完的に結びついていました。

飛田新地地区に一部残っている西側ゲートの塀。
写真の両側の建物の壁面を見ると、もともと建物のあいだに、飛田新地の区域を隔てていた壁があった痕跡が見える。

西成、とくに釜ヶ崎は、日本最大規模の日雇い労働者の集結地として機能し、高度経済成長期の日本を支えるうえで決定的な役割を果たしてきたにもかかわらず、その一人ひとりの生は、ほとんど記録されてきませんでした。彼らは、名前のない統計、あるいは「問題地域」という表象として残されただけです。労働は都市を動かす中核ですが、労働者の生は、制度的なアーカイブからこぼれ落ちがちです。

ココルームの運営は、上田假奈代さんと、スタッフ(インターンやボランティア)たちが担っています。
假奈代さんは詩人です。
私は、詩を書く女性たちのことを、少し知っています。
文芸創作専攻を出て、友だちも詩人で、詩人たちから文章を教わってきたから。
女性の詩人たちには、独特の、痛みを帯びた寛容さのようなものがあります。人のことを勝手に言ってはいけないのですが、私は、そういう種類の寛容さのことを知っています。その寛容さは、寛容で、さらに寛容で、本人は幸せなのだけれど、 見ている側の心が、少しだけ引っかかるような、そういう種類の寛容さです。
假奈代さんは、ココルームで「表現」に関する企画を続けながら、「生きるためには表現だ」というスローガンのもと、さまざまな活動を通して人の心を集めています。「表現」という言葉は使っても、「詩」や「芸術」という言葉は使いません。詩を書くことを強いる詩人のなかに、いい詩人を見たことがないので、そのこともあって、私はなぜだか、この人をとても信頼するようになりました。

ココルームのロビーに座っていると、なんとなく、何か手伝わなければいけないような気分になります。でも、誰も私に、何も頼みませんでした。開かれていて、役割はなく、義務もなく、それなのに、不思議な責任感が生まれてくる場所。私は、そこに入ることができます。追い出されることもありません。私は、そこに座っていてもよくて、何もしなくてもいい人でした。ときどき、障害のある住民の人が来て、ひとりで延々と話していくことがありました。スタッフたちは、彼の話に答えながらも、適当に、いい加減に受け答えをして、でも、追い返すこともしませんでした。彼が、そこに居続けてもいいようにしていて、帰ると言えば、挨拶をしていました。とても平和でした。誰かが誰かをケアしている、そんな感じでもありません。ただ、同じ空間に一緒にいるだけです。そうして、食事の時間になると、みんなでごはんを作って、食べて、片づけました。

ココルームに泊まりはじめた翌日、久しぶりに知っているアーティストさんに、偶然、そこで会いました。大阪はあんなに広いのに、です。この町が、孤立した場所のように感じられていたぶん、その偶然は、妙に思えました。
不思議なことに、いっしょに部屋を使っていた人たちの顔が、思い出せません。誰がいたのか、いなかったのか、誰が先に出て、誰が入ってきたのかも、覚えていません。誰もいなかったような気もするし、にぎやかに挨拶を交わしていたような気もします。

最後の日には、あいりん地区で有名な三角公園に行きました。あいりん地区の三角公園は、YouTubeで見たことがあります。昔、暴動が起きたことで知られている、この街の中心地です。ここ数年、西成を訪れるユーチューバーが増えて、この周辺の風景や貧困を題材にした動画が、繰り返し作られるようになっています。私も、そういう動画を見ました。お年寄りが道ばたに無造作に寝転がっていて、自販機の飲み物はすべて100円で、妙に宿泊費の安い宿や、無料の炊き出しが出てくる、そんな映像です。三角公園を中心に、ホームレスや高齢の労働者の日常が撮影対象になるなかで、住民たちが写真撮影に敏感になっていった、という話を、ここに来る途中で聞きました。だからでしょうか、私のiPhoneには、三角公園の周辺の写真が、一枚もありません。
西成は、もはや「見えない場所」ではなく、むしろ、特定の見え方だけをされる場所として、消費されるようになったのかもしれません。こうした可視化は、生の複雑さや歴史的な文脈を浮かび上がらせるよりも、「問題地域」というイメージを、再生産するかたちで働くことが多いように思えます。記録やイメージが増えるほど、逆説的に、生は、より記録されないかたちで残されていきます。

私は、あるユーチューバーの動画のなかで見た、三角公園のテレビが気になっていました。動画のとおりに、三角公園の周辺が「本当にそうなのか」よりも、なぜか、公園のまんなかに、電柱のようにテレビが立っていた、あの画面の風景が、強く、記憶の残像として残っていたのです。荒れた公園にテレビがあるというのが、おかしくもあって……でも、なぜか、忘れられなかったのです。

三角公園には、片側にステージがあり、黄土色の運動場と、まばらに立つ木々が、公園を囲んでいました。釜ヶ崎芸術大学(ココルーム)が、年に一度、このステージで公演をするのだそうです。私と先生たちが行ったとき、屋根がぼろぼろになったステージの下で、誰かが寝ていました。運動場のまんなかには、テレビもありました。カバーがかかっていました。時間を決めて、ときどきだけ、開けられるようです。この文章を書きながら調べてみると、こんなニュースが出ています。

西成・あいりん地区の「街頭テレビ」復活 地元企業が管理引き継ぐ
毎日新聞2019/4/12 19:49(最終更新 4/12 22:54)

大阪市西成区のあいりん地区で、半世紀以上、労働者の娯楽として親しまれてきた街頭テレビが12日、約1年ぶりに復活した。昨年3月に壊れ、大阪府警西成署が撤去を検討するなど存続が危ぶまれていたが、地元企業が管理を引き継ぎ、新しいテレビを設置した。

公園の木の下で、何人かが肉を焼いていました。美味しい匂いがして、日本の公園でああいう光景を見たのは、初めてでした。汚れた服を着て、弱々しそうな人たちが、笑いながら肉を食べていました。 その中で、ひとりだけ、この町の人には見えないのに、どこかこの町の空気の中に溶け込んでいるようにも見える、黒人の男性がいました。私たちを見ると、大げさに手を振りながら、「ヘイ、ウェア・ユー・フロム!」と叫びました。あまりにも明るく笑うので、歯の抜けた歯ぐきが、はっきり見えました。一瞬、返事をしようか迷って、軽く微笑むだけで、通り過ぎました。それが正しい反応だったのかどうかは、いまだによく分かりません。

この町が、私を拒まないという事実が、かえって、私をよりためらわせました。

一方で、西成は、地域の高齢化と、外国人移住者の流入によって、新しい変化の局面も迎えています。最近は、中国式の宗教施設ができて、さまざまな国籍の移住者たちが、この地域に流れ込み、既存の住民たちと、入り混じって暮らしています。私が、あいりん地区について聞いた話が、もうひとつあります。昔は、この町に、ハンセン病を患っていた人たちが、よく遊びに来ていたそうです。理由は、単純です。ここでは、誰も、彼らをおかしな目で見なかったからです。

鶴橋では、誰かが残そうとした記憶たちが、制度の言葉によって、空白とともに整理されていました。何が収集されたのか。何が展示されたのか。何が抜け落ちたのか。西成では、誰も残そうとしなかった生が、ただその場所にとどまっていました。ある種の記憶は、制度的な展示に回収されないことで、むしろ現在形のまま残ります。それらは、説明されたり、解釈されたりするというよりも、繰り返される行為、語られること、関係を結ぶこと、身体の習慣やリズムのなかで、持続していきます。そうした記憶は、標本のように固定されることなく、いつも再び起こり、完結しない状態のまま、とどまっています。
私は、この二つの場所で、同じ問いを二度することになりました。自分は、どんな記憶の前で、語っていい人間なのか。私が使う言葉。私がする考え。

何ができるのでしょうか。

誰が、記憶される資格を得て、誰が、何を残すことができるのでしょうか。

私は、いまもなお、自分がどんな記憶の前で語っていいのか、よく分かりません。記録されない顔たちと、名前のない統計と、誰も残さない生のあいだで、私はときどき、立ち止まってしまいます。ただ、鶴橋と西成で、記憶が制度のなかに入るとき、何を失うのか、制度の外にとどまるとき、何を守るのか、それを見た気がします。そして、そのあいだのどこかに、私の知らない祖母の名前も、置かれているようです。祖母のある時間には、何の記録もありません。制度もありません。公的な言葉もありません。それなのに、私のなかからは、消えないのです。

一度も居たことのない記憶が、
消えずに残るということは、ありうるのでしょうか。

不思議なことに私は、自分が一度も見たことのない場面たちに、だんだんと、つかまっていきます。
自分が経験していない記憶が、大切になっていくということ。
このレビューは、何かを残すための記録というよりも、記憶のどこかで、立ち止まってみたものに近いのだと思います。
ある生は、到着だけを残し、また別の生は、始まりも終わりも分からないまま、経由だけを残します。

ココルームでは、毎朝、アーケードの商店街に出て、朝の体操をしていました。誰かがココルームのためにつくったという歌を流して、向かい合って、腕や脚を伸ばしたり、その場でぴょんぴょん跳ねたり、くるくる回ったりしました。人がそのあいだを通り過ぎると、挨拶をしました。私は、この記憶がいちばん好きです。この瞬間だけは、自分が外部の人間だという感じが、少しだけ薄れたからです。
いいえ。
この記憶がいちばん好きだった理由は、たぶん、ただ挨拶をしたから。

思っていたより、あいりん地区は、静かでした。
夜は、怖かったです。

ずっと昔に私が見た、あるいは、誰かたちが見た、真っ暗な海のようでした。

おわり